2017年2月18日土曜日

禍福はあざなえる縄のごとし




稲盛 和夫(著)「生き方」143P
 

        「禍福はあざなえる縄のごとし」



 人の「禍」(わざわい、不幸)と「福」(幸福)とは、あざなえる縄のごとく、交互にやってくるということだと思うんです。

 

 これは、若い人のみならず、年を取れば取るほど、実感としてひしひしとして首肯せざるを得ません。

 

 まあ、どんな人でも、人生山あり谷ありで、そういう意味では皆平等なんだなあ、とつくづく思わずにはいられません。

 

 思い出すのは、最近の日本経済新聞の「私の履歴書」のコラムで、世界のホームラン王の王 貞治選手の最終回の『くじけそうになったら「王にもずいぶんつらいときがあったらしい」と思い出してみていただきたい』という文言がありました。

 

 あの謙虚な、紳士的で、性格の良さそうな、人間的にも完成されたような、超天才的なスーパースターで、悩みなんかあり得るはずがないと思っていた王 貞治選手でさえ、悩んで苦しいときがあったわけです。

 

 そういう意味では、「苦しみ」と「楽しみ」、「不幸」と「幸福」、「悲劇」と「喜劇」、なんかは、表裏一体というか、ものごとの光と影というか、皆同じように、ひょっとしたら数量的にも同じように味わうものかもしれません。

 

 ただ、数量的にも皆同じくらい出現するとすると、また生まれたときは皆平等の位置にあったとすると、その後の不幸度合とか、幸福度合とかは、どこからくるんでしょうか。

 

 やはり私は、その後のその人の努力次第、向上心とか志とか、人格の向上を目指すとか、

そういうところに行きつくと思うんです。

 

 宿命は変えることはできませんが、運命は変えられるというか、運命を切り開いていくことはできるというか。

 

 まあ、育ってきた環境は変えることはできないかもしれませんが、家庭教育、学校教育なんかを、しっかりと努力して学んでいくということが大事だと思うんです。

 

 それと、大きく差がつくのが、実社会へ出てからの自分から積極的に継続して「学ぶ」という姿勢のような気がします。

 

 こんなことを、しゃーしゃーと言っていますが、こんな理想論的な口先三寸みたいなことは自分でもやってきたかというと、とてもできていないと反省することばかりの今日この頃ですが。

 

 なにせ、最近でも人生を楽しむことを最優先にしていまして、動物的な本能の、運動・音楽・食事・会話を楽しんだり、自然を愛でたり、宇宙・大自然の中の構成の一員として、調和を保ったりしているわけであり、宇宙・大自然の掟に逆らうとバチがあたると思っている次第です。

 

 しかし、あえて言えば、稲盛 和夫さんが言っているように、人生の目的は人格の向上を目指すことであるかな、と思っていたりするわけです。

 

 まあ、人格の向上とか、人間性を高めるとか、人柄が良いとか、そういうことによって、

人生の「谷」より「山」の方が、「不幸」時よりも「幸福」時が、「苦しみ」より「楽しみ」の方が(「苦労を楽しむ」という心境に達することもできる)、「悩み」よりも「喜び」の方が、心理的に大きく感じることができるようになるんじゃないでしょうかね。

 

 まあ、年を取ってくると、「苦しみ」とか「悩み」で深刻にならない、軽く受け流すというか、そういう心境になってくるというか、数多く経験したことによる免疫力が向上したというか。

 

 そういう意味では、ものごとの対処方法の「引き出し」を多く持つということも有効かもしれません。

 

 その「引き出し」を多く持つためには、やはり多くを「学ぶ」という姿勢が大事だと思われます。

 

 過去の歴史から「学ぶ」、本などからの他人の人生から「学ぶ」、とかいくらでも方法はあると思うんです。

 

 最近では、ITの利活用のSNS(Social Networking Service)なんかで、他人と繋がる、会話する、ということが流行っています。

 

 私なんかは、この東京砂漠ならぬ都会砂漠で、FacebookとかTwitterで、昔の村社会の繋がり、絆が復活しようとしていることに、大いに期待しているところもあります。

 

 これは、最近の情報革命により、「時間と空間を超越」して、地球上の誰もが瞬時に繋がることができるようになったおかげです。

 

 この文明の利器を使わないわけにはいきません。

 

 

 

 参考までに。

 

 「人間万事塞翁が馬」ということわざがありますが、似たようなことを言っていると思います。

 

 人生は、吉凶・禍福が予測できないことを言っています。

 

 人生の出来事は、何かが原因で「凶」となったり、また「吉」となったり、また、「禍」となったり、「福」となったりします。

 

 思うに、「禍」となった出来事でも、それが原因で「福」となる可能性があるわけです。

 

 「災い転じて福となす」ということも言われていますし。

 

 そいう意味では、「不幸」な出来事でも、余り大きく深く悲観することなく、「悩み」でも余り深く大きく深刻にならずに、「とらわれない心」「おおらかな心」で、素直に従容として受け入れるということですかね。

 

 

 

人生に起こるさまざまな変化や機会を、楽しかろうと辛かろうと、堂々と迎えるという態度ということですかね。

 

言うは易し、行うは難し、は百も承知の上ですが。

 

   お後よろしいようで。




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