2017年2月16日木曜日

努力できることが才能である。

                                               
( 富士通川崎工場 横門入口 )



松井 秀喜(著)「不動心」82P

         『努力できることが才能である』



 この本は2007年に読んでいますから、まだ 松井 秀喜 選手が現役のころ、アメリカのヤンキースに入団した前後あたり?だと思うんですが。

 

 確か読んでいて、かなりしっかりした内容で、なんか謙虚というか、人格的にもすぐれたというか、若いのにかなり人間ができているなあ、と思ったような記憶があります。

 

 巨人での背番号が「55」であり、王 貞治 選手の年間本塁打記録を目指すというか、そういえば何か 王 貞治 選手をお手本にしているような感じを私自身は、当時受けたものでした。

 

 松井 秀喜 選手も決して、威張らず謙虚で、人間的にも好感が持てるという印象がありました。

 

 当時は確か巨人の主軸4番バッターとして、3冠王に近い成績を残していたと記憶しています。

 

 松井 秀喜 選手が星稜高校時代、甲子園高校野球大会で、明徳義塾高校(高知)から

5連続フォアボールを受けたときも、普通は文句を言いたくなるのでしょうが、決して怒らず、逆にこのときの経験が自分を大きくしてくれた、と言っています。

 

 星稜高校はサッカーでも名門で、本田選手なんかも輩出していますが、なんかこう教育方針で「心」とか「精神」も重要視しているところがあるんでしょうかね。

 

 それとも、家庭での教育が余程しっかりしているんでしょうかね。

 

 私はそういう 王 貞治 選手とか 松井 秀喜 選手の人間性とか人格とか性格なんかが気に入っています。

 
 

 独断と偏見で勝手に想像して言いますと、人には「努力するのが嫌いな人」と「努力するのが好きな人」とがいるような気がします。

 

 人間の本源的な性質として、「楽をしたい」というのは確かにあり、それは理解できます。

 

 しかし、普通は「努力する」ことは、逆の「楽はしたいけど、できない」、苦労する、苦痛を伴う、ということを伴うわけだと思うんです。

 

 この矛盾というか、壁というかを乗り越えるためには、やはり「教育」とか「経験」とか「学び」とかで、「楽する」ことよりも、「努力する」ことによって得られることの方が大きい、ということを理解するというか、教えてもらうとか、気付くというか、経験なんかで学ぶというか、そういうことが必要だと思うんです。

 

 因果応報というか、「努力したものが勝つ」とか、昔からそういうことは往々にして言われてきているわけであり、それを各個人がどう肌身で感じて実行するか、経験なんかで学んでいくか、というところにかかっていると思うんです。

 

 努力したが無駄だった、ということもありますが、多分努力して良かった、得られるものが多かった、というケース・場合の方が、確率的には半分以上は確実に、いや8、9割以上は当てはまると思うんですが、いかがでしょうか。

 

 そういう意味で、努力できることは、才能であると言っているんでしょうね。

 

 各個人にはいろんな個別の才能を持っていると思われますが、この「努力できる才能」は万人共通に備わっている「才能」であり、使わない・磨かないという手はないと思います。

 

 「努力しない」ことは宝の持ち腐れだと思うんですが、いかがでしょうか。

 

 「努力する」ことを、「楽しく努力する」という発想に転換すれば、いいんじゃないでしょうか。

 

 仕事でも「楽しく仕事をする」とか、家庭生活でも「楽しく家族と接する」とか、

家事でも「家事を楽しむ」とか、「楽しく子育てをする」とか、「楽しく勉強する」とか、

そういう風に考える、発想の転換をするのがいいんじゃないかと思ったりしています。

 

 まあ、言うは易く、行うは難し、というのは重々承知していますが・・・。

 

 まあ、「苦労を楽しむ」という境地に達するというか、「努力を楽しむ」という境地に達するというか、そうなれば、人生の定石の初段レベルに達したと言えることができるかもしれません。

 

 また、「人格を高める努力をする」ということも大事かと思います。

 

  お後よろしいようで。

 

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