2017年1月26日木曜日

人生が不条理である。


中島 義道(著)「怒る技術」198P
 

             『人生が不条理である』
 
 


 
 
 辞書「広辞苑」で調べると、次のようになっていました。
【不条理】①道理に反すること。不合理なこと。背理。
     
 母がよく「人(人生)は思ったようにはいきゃーせん」「おもしろおかしくやりゆう人は、誰もおりゃーせん」とよく言って、なぐさめてくれていたのを思い出します。
 
 「人生不可解なり」と言った人もいたような・・・。
 
 不合理ということで、人生の予測が外れる、人生の意味不明ということがということが、しょっちゅう起こるのでしょう。
 
 特に、交通事故で亡くなったり、自然災害で亡くなったりすると、人生は不条理だと思うことでしょう。
 
 それに、人生で想定外のことが起きると、人生は不条理だと思うことでしょう。
 
 また、他人と比較することによって、自分は何故こうなんだと、不条理に思う人もいます。
 
 私はできるだけ他人と比較しないように心がけています。
 
 美輪 明宏さんが言うように、貧富、学歴、容姿、年齢、性別、国籍、肩書などでは比較しないように、極力努めようと思っています。
 
 
 
 昔、大学の学生寮の寮長だった、1年先輩の高杉さんは、学生運動の最中によく「彼は運命論者か?」と軽蔑するように言っていました。
 
 人生で起こる出来事は、すべて運命なのだから、本人がいかに努力しようが、頑張ろうが、どうしようもなくて、同じ結果になるという意味だったと思います。
 
 「宿命」と「運命」という呼び方もあって、「宿命」は変えられないけれども、「運命」は本人の努力とか頑張り次第で変えられるという人もいます。
 
 
 
 一方で、「人間万事塞翁が馬」ということわざもあります。
 
 また、仏教でいう「因果応報」というのもあります。
 
 人生で起きる出来事は、原因があるからそういう結果になるのだという。
 
 これは、努力すれば報われるということで、希望が湧いてきます。
 
 
 
 「人生が不条理である」という見方は、何かこう交通事故とか自然災害とかで、自分の力ではどうすることもできないような、受身的な状況のときじゃないですかねえ。
 
 宇宙の掟とか自然の環境に逆らえないというか、広い意味での自然環境への適応のような・・・。
 
 社会や環境が悪いというよりも、そであるという社会や環境を受け入れざるを得ないという諦観(あきらめの境地)になりなさいということですかね。
 
 交通事故とか自然災害とかで亡くなる場合も、受け入れざるを得ないという諦観(あきらめの境地)になりなさいということですかね。
 
 交通事故とか自然災害とかで亡くなることを警戒して、いつもビクビクして人生を送ることはできないですからね。
 
 まさに杞憂ということです。
 
 会社生活の人事異動のように、自分の力ではどうすることもできないような事柄には、一切クヨクヨ考えても、自分では絶対解決できないし、考えること自体時間の無駄です。
 
 そういう意味で、「人生が不条理である」というのは真実かもしれませんが、諦観(あきらめの境地)というか、「不条理」が起こったときにも、常に粛々(しゅくしゅく)と堂々と受け入れて、動揺せずに不動心で人生を乗り越えていく心構えが大事だと思います。
 
 ある本の中で、「人が死んだときは、悲嘆するのではなくて、感謝の念を持ちなさい」(?)
というようなことを書いているのを思い出しました。
 
それに対して、仏教の「因果応報」という見方は、なんだか人生に納得ができて、希望に満ちていると思いますが、いかがでしょうか。
 
J1サッカーの川崎フロンターレの中村 憲剛選手は、本の中で「練習はウソをつかない」と言っています。
 
つまり、練習でできることは本番でもできて、練習でできないことは本番でもできないということですかね。
 
練習することで、できることを増やす、引出しを多くもてるということですかね。
 
 
 
最近、「一寸の光陰軽んずべからず」という心境で、一滴の水ならぬ一滴の時間も無駄にせず、学習・精進に励んでいます。
 
米国アップル社の故スティーブ・ジョブズも伝記映画の中で、「時間を浪費するな」と言っています。
 

 

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