「苦労を楽しむ」
この「苦労を楽しむ」ことができるようになったら、「人生を楽しむ」ことができるような気がします。
この言葉「苦労を楽しむ」に最初に出会ったのは、確か私が30才代前半くらいのときに、日本経済新聞の「私の履歴書」というコラムで、誰だったか忘れたのですが、ある有名な方が、書いていました。
最近見た「釈迦=ブッダ」の生涯のDVDでも、人生は苦であり、苦労ばかりである、
しかし、死期が近づいてきたときには、「人生は美しい」とか言っていたような・・・。
つまり、この人生は苦であり、苦労ばかりである、ということを悲観的にとらえて、
苦痛のみとしか受け取れないのか、ということです。
ここで、この人生は苦であり、苦労ばかりである、ということを楽観的というか、ポジティブというか、前向きにとらえて、結果的には自分を成長させるもの、自分を向上させるもの、という風にとらえ直すことが必要だと思います。
練習とか学習とか訓練とか修行とか、仕事とか子育てとか夫婦関係なんかもそうかもしれない、そういうことはどうしても苦労を伴うのですが、その苦労したことの結果として、
良い結果が得られる、のだと思います。
どうしても苦労を伴うのであれば、その「苦労を楽しむ」という心境・境地・心構え・姿勢、に到達する、というかそういう心の持ちように到達する(悟り)のが大事なように思います。
人間はともすれば、どうしても楽な方、怠惰な方、何もしない方、に心が傾きがちなのですが、これは良くないのです。
これは、過去に生きた人の歴史、とか過去の人の生き様、などからも証明されていると思います。
昨年の、リオ・オリンピックの卓球女子団体で、銅メダルだった選手の一人、福原 愛選手が試合直後、「苦しかった」という発言がありましたが。
それを見ていて、もう一歩心の持ちようを進めて、「苦しかった、けれども楽しかった」という心境になってほしい、と思ったことでした。(傲慢な言い方は慎まないといけないのですが)
ここで、思い出したのは、以前「吉野家」の社長だった、安部 修仁社長(当時)の
講演会で、「BSE(牛海綿状脳症)のときに、アメリカからの牛肉の輸入がストップし、
会社が倒産の危機に陥ったとき、非常に苦労した」という話の後で、「しかし、今人生を振り返ってみると、そのときが一番印象深くて楽しかった」というような発言をされていました。
当時の、リオ・オリンピックのときの選手で、「試合を楽しんできます」という人も増えてきていたりして、心構え的にはいい傾向かなあ、と思ったりしたことですが。
リオ・オリンピックの試合を見ていて、勝敗を分けるのは、本当に紙一重のような感じがします。
極端なことを言うと、いかに練習とかの苦労を他の選手より多くしているか、が勝敗を決している、という見方がある面では言えるかもしれません。
つまり、この「苦労を楽しむ」ことができるようになったら、「人生を楽しむ」ことができるような気がします。
このことは、スポーツのみならず、仕事や家庭、人生のあらゆる面で、言えると思います。
余り長くなるといけないので、この辺までで。
お後よろしいようで。
0 件のコメント:
コメントを投稿